戦国武将 -あ-
秋山 信友 あきやま のぶとも (1531-1575) 伯耆守
武田二十四将の一人
伊那高遠城代飯田城主として西信濃の守りを任される。
1573年、美濃国(現-岐阜県)岩村城を攻め無血開城に成功。
岩村城の城主だった信長の叔母を妻とする。
信玄没後も西の守りをよく務めたが、長篠の合戦の敗北により援軍が期待できない中
1575年、織田信忠が率いる軍に城を囲まれる。
5ヶ月間の篭城に耐えたが織田信長の増援もあり降伏。岐阜長良川河畔で磔に処せられた。
穴山 信君(梅雪) あなやま のぶきみ(ばいせつ) (1541-1582) 陸奥守 入道:梅雪斎不白
武田二十四将の一人
信玄の甥・娘婿にあたり武田家親族衆の筆頭。
特に目立った武功は挙げていないものの
駿河国(現-静岡県)興津城、長篠の合戦後には同国江尻城と東海方面の最前線にあたりつつ
善政を施し領民にも慕われていたという。
1582年の
「織田家侵攻」の際、
武田家救済、家名存続を条件に徳川家に降るが結果的に武田家滅亡を早める結果となった。
武田家滅亡後、所領を安堵されるが本能寺の変の際、家康と共に堺にいた。
海路をとった家康に対し、
陸路をとった梅雪は宇治田原の山中で土民の手にかかり最期を遂げた。
甘利 虎泰 あまり とらやす (1498-1548) 備前守
武田二十四将の一人
信虎・
信玄と二代に仕える。
合戦巧者として定評があり信玄に合戦の駆け引きを教えたとされ
「用兵、戦陣での采配、駆引きの妙は武田家中に虎泰の右に出るものなし」と称されている。
事実、甘利隊の出撃を聞き戦わずして敗走させたエピソードも残る。
が、1548年の村上義清との
「上田原の合戦」にて
板垣信方らと共に戦場に散る。
戦国武将 -い-
板垣 信方 いたがき のぶかた (1485-1548) 駿河守
武田二十四将の一人
信虎・
信玄と二代に仕え晴信(信玄)の傅役を務める。
1541年、信虎の悪政に失望し
甘利虎泰と共に晴信を支え信虎を駿河(現-静岡県)に追放する。
以降、武田家中の筆頭家老として晴信を補佐し時には手厳しい諫言もあったという。
信州諏訪城代として桑原城を守るが
1548年、村上義清との
「上田原の合戦」にて討死する。
一条 信竜 いちじょう のぶたつ (-1582) 右衛門大夫
武田二十四将の一人
信虎の八男で
信玄の異母弟。
信玄の後詰部隊に徹していたようで信竜の具体的な戦績は残されていない。
そんな信竜を
山県昌景は
「伊達者にして華麗を好む性質だ」と評している。
1582年、勝頼の脱出を見送った後、駿河国上野城において徳川家康を迎え撃つが敗北。
捕らわれて誅殺された。
戦国武将 -う-
戦国武将 -え-
戦国武将 -お-
小幡 虎盛 おばた とらもり (1491-1561) 山城守 入道:日意
武田二十四将の一人
幼名を孫十郎と名乗っていたが
信虎から「虎」の一時を賜り虎盛と称した。
合戦に臨む事36回。36枚の感状を授かり全身には40以上の傷をもつ剛の者。
海津城将、
高坂昌信の副将を務めた。
川中島の戦い直前、子の
昌盛に対し
「よくみのほどをしれ」と遺言を残し病死。
小幡 昌盛 おばた まさもり (1534-1582) 豊後守
武田二十四将の一人
小幡山城守虎盛の嫡男で小幡勘兵衛景憲の父
虎盛の死後、遺領を受け継ぎ
信玄の旗本に加えられる。
上野倉賀野城・武蔵松山城など主に関東方面で活躍する。
武田家滅亡の五日前に病死。
飯富 虎昌 おぶ とらまさ (?-1565) 兵部少輔
武田二十四将の一人
信虎・
信玄と二代にわたって家老を務める。
信虎追放の際には
板垣信方・
甘利虎泰と共に晴信を擁立する。
飯富隊は騎馬武者や兵卒がすべて武具を朱一色に統一し
「赤備え」と呼ばれ数々の戦功を挙げる一方、
信玄の信頼も厚く、長男である義信の傅役を任される。
が、1565年、義信が信玄の追放を企てた事件の罪を一身に負って自害する。
小山田 信茂 おやまだ のぶしげ (1539-1582) 越前守
武田二十四将の一人で小山田信有の子
武田軍中最強を誇る郡内勢を率いて数々の武功を挙げる。
特に小山田隊先鋒は投石部隊として活躍している。
当時の鉄砲の射程距離はせいぜい30メートルだったが、
小山田隊の投石距離は200メートルを超えたという。
「織田家侵攻」の際、武田勝頼から岩殿山城への入城を求められるが拒否。
武田家滅亡に伴い織田方に降るものの
勝頼の入城を拒んだ事を咎められ善光寺にて誅殺される。
「謀反人」とする説もあるが小山田家は桓武平氏の名家で
武田家とは盟友的関係だったと考えられ、小山田家存続の為に武田家と離別したとされる。