戦国武将 -さ-

三枝 守友 さえぐさ もりとも (1537-1575) 勘解由左衛門

三枝守友
武田二十四将の一人
「小田原攻囲戦」「三増峠の戦い」などの合戦で功を立て
「駿河花沢城攻め」では一番槍をあげている。
さらに「三方ヶ原の戦い」では獅子奮迅の働きを見せ山県昌景から名刀を与えられている。
「長篠の合戦」では武田兵庫助信実の副将として
鳶ノ巣山に陣取るも徳川家の酒井忠次軍の奇襲により討死する。

真田 信綱 さなだ のぶつな (1537-1575) 源太左衛門尉

真田信綱
武田二十四将の一人
真田幸隆の長男。
父親譲りの武勇で「川中島の戦い」「三方ヶ原の戦い」と主な戦闘に参加し武功を挙げ、
1567年頃には弟昌輝と共に武田家重臣と同格として東海方面の前線で働いている。
1574年、幸隆の病死により家督を継ぐが翌年の「長篠の合戦」で討死する。

真田 昌輝 さなだ まさてる (-1575) 兵部丞

真田昌輝
真田幸隆のニ男。
信綱と共に信濃国上田城を守り小県郡・上野国吾妻郡を支配した。
1569年の「小田原城攻囲戦」では北条氏照の軍を破るなど武功を挙げている。
1575年、信綱と共に「長篠の合戦」に参加。鉄砲隊の前に討死する。

真田 昌幸 さなだ まさゆき (1547-1611) 安房守

真田昌幸
真田幸隆の三男として生まれる。
当時、武田家に臣従していた真田家は幼い昌幸を武田信玄の元へ人質として信玄の下で育つ。
甲斐(現-山梨県)の名門の家柄である武藤家が絶家だった為、
武藤姓を受け武藤喜兵衛と名乗り、武田家中において諸将の評価も高く
信玄をして「わが両眼の如き者」と言わせる程までに成長した。
1575年、長篠の戦いにおいて兄信綱昌輝が討ち死にし、真田家の家督を継ぐ。
真田家当主となった昌幸は上野(現-群馬県)の攻略を開始。
上杉謙信の死により上杉家の混乱する中、
乗じて岩櫃城、沼田城を手中にし勢力を拡大するものの、
1582年、主家武田家が滅亡してしまう。
主家を失った真田家は、その後、織田、北条、徳川と主家を変えるが
北条と徳川が和睦した事により状況が一変する。
徳川家康は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)との戦いに備え、北条氏直と結ぶ事になり、
それにより真田家は北条との戦いにおいて徳川という後盾を失ってしまう。
また、徳川と北条の和睦の条件に沼田の地を北条に引き渡される事にもなったが、
沼田の地は昌幸が自ら攻略した地であり、徳川家の要求に対し昌幸は断固拒否の姿勢を見せ、
上杉を頼り、結果として秀吉側の勢力に移る。
この行動に徳川家康は激怒。
1585年、鳥居元忠、平岩親吉、大久保忠世らを将として上田城の攻撃を命じる。
昌幸の巧みな戦術によって徳川家は惨敗し
俗に言う「第一次上田合戦」は真田家の勝利に終わる。
家康が秀吉に臣従する事となり真田家は徳川の配下に属する事になるが、
秀吉すら上杉景勝に宛てた書状の中で昌幸を「表裏比興の者」と記述している。
1589年、秀吉の命により沼田の地は北条に引き渡す事になるが、
名胡桃城周辺は真田領として約束される。
だが、沼田城代として派遣された猪俣憲直は策略を用いて名胡桃城を陥落させてしまう。
これに激怒した秀吉によって小田原征伐(北条攻め)が決定される事となる。
秀吉の死後、豊臣と徳川の対立は表面化し
1600年、五奉行筆頭、石田三成が徳川に対して挙兵する。
この時、昌幸と次男真田幸村(信繁)は豊臣側へ、長男真田信之は徳川側へ付く事となる。
中山道を通る徳川秀忠を大将とする38000の軍勢は数に頼り、
昌幸の居城上田城に帰順勧告を行うが
昌幸は恭順の意を見せながら時間を稼ぎ、頃合い良しとキッパリ拒否する。
激怒した徳川勢は上田城を踏みつぶさんと攻撃を開始し、
ここに「第二次上田合戦」が始まる。
結果、徳川軍は「わが軍大いに破れ、死傷算なし」とまで記すほどの敗退をする。
しかし、関ヶ原での戦いでは徳川軍が勝利したため、
昌幸は紀州九度山(現-和歌山県)に蟄居の身となり生涯を閉じる。
昌幸の死後、1614年、大坂城に真田入城の報が家康の元に届く。
家康は「親の方か?子の方か?」と2度問いただし、
手をかけた板戸がガタガタと鳴り渡るほど震えていたとの逸話が残る。

真田 幸隆 さなだ ゆきたか (1513-1574) 弾正忠 入道:一徳斎

真田幸隆
武田二十四将の一人
信濃の土豪で松尾城主で海野棟綱の長男。
信濃国小県郡真田郷を領した事で真田姓を名乗る。
1541年「海野平の合戦」で村上義清に敗北。
信濃を追われ上野国箕輪城主長野業政のもとに身を寄せるが、
1546年、武田家の本格的な信濃攻略に際して信玄に招かれる。
1550年、武田軍は戸石城を力攻めに攻めるが「戸石崩れ」とも呼ばれる手痛い敗北を喫する。
だが幸隆は半年をかけて戸石城内部の切り崩しに成功し単独で攻略。
これ以降、信濃での村上勢力は衰退し義清は越後へ逃亡する。
上杉家との戦いでも海津城の築城、「川中島の戦い」など最前線で働き軍功を挙げていく。
その後、智謀を生かした得意の内部工作により
難攻不落と呼ばれる城を次々と落とし上州吾妻郡を攻略。
武田軍の勢力拡大に貢献、「攻め弾正」の異名を取る。
信玄の病死後、ひどく落胆した幸隆は翌年、後を追うように世を去る

真田 幸村(信繁) さなだ ゆきむら(のぶしげ) (1567-1615) 左衛門佐 入道:好白 妻:大谷吉継の娘

真田幸村
真田昌幸の次男として生まれ、上杉景勝、豊臣秀吉の人質として若年を過ごす。
1600年、上田城(現-長野県)にて父真田昌幸と共に徳川秀忠を破る。
しかし、関ヶ原での戦いは東軍(徳川軍)が勝利したため、
昌幸と共に紀州九度山(現-和歌山県)に蟄居の身となる。
1614年、息子の大助と共に豊臣方に与し大坂城に入城。
冬の陣では真田丸にて戦果をあげるが、豊臣方の敗北に終わる。
翌年1615年、夏の陣では
三方ヶ原以降、崩れる事の無かった家康本陣を三里後退させる働きを見せる。
しかし、疲れきったところを西尾某に討たれ生涯をとじる。
西尾某は真田幸村の首と知って家康への首実検の際、
「討ち取るのに苦労しました」と偽った報告をするが
「お主如きがまともに戦って討ち取れる訳が無かろう」と家康に見抜かれたとの逸話も残る。
また、その戦いぶりを聞いた島津義弘は
「真田、日本一の兵(つわもの)なり」と絶賛したとの記述も残っている。
猛将のイメージが強い武将であるが、
夏の陣で対峙する真田信吉、信政を思い、
家紋の色を反転させて出陣するなど心優しい面も見せる。
また、兄信之も
「物事柔和忍辱にして強からず、言葉少なにして怒り腹立つ事無かりし」と評している。
家紋の六文銭は地獄の六道への支払い料として三途の川を渡る際に必要とされる六文を表す。
(戦死跡之碑 大阪府大阪市天王寺区上ノ町)

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