戦国武将 -た-

武田 勝頼 たけだ かつより (1546-1582) 四郎

信玄の四男で母は諏訪氏。
勝頼の母の父にあたる諏訪頼重は信玄と和睦の後に謀殺されているので
勝頼の誕生は武田家では復讐の恐れありと警戒された。
が、信玄は諏訪衆の懐柔のため勝頼に諏訪氏の跡目を継がせた。
また、義信が反逆を企てたとして自害を命じ、名実ともに武田家の後継者となる。
信玄亡き後、東美濃、遠江、三河への侵攻を継続する。
が、勝頼の側近である跡部大炊助、長坂長閑斎ら文官と
歴戦を戦い抜いてきた宿老たち武官との対立が発生。
勝頼は伊那郡代、高遠城主の頃から配下となっていた
跡部、長坂らの意見を尊重するようになっていた。
東美濃では岩村城の周囲にある十八子城を1ヵ月半で攻略。
さらに信玄が落とせなかった遠江高天神城を落とす。
この頃、織田信長が上杉謙信にあてた書状の中で
「武田四郎(勝頼)若輩ではあるが信玄の掟をよく守って表裏のかけひきもうまく油断ならぬ」
とある。
1575年、信玄喪明けの大法要の後、三河へ進撃、長篠城を囲む。
長篠城主奥平信昌が城を死守するなか
織田・徳川連合軍は長篠城西方、設楽郷に陣を張り迎撃の姿勢をとる。
これに対し武田軍は長篠城の付城である鳶ノ巣砦に一部の軍を残し東進。
待ち受ける織田・徳川連合軍との決戦を決意し「長篠の戦い」へ。
そして、この戦いで信玄以降、武勇を誇った勇将の大半が討死となり致命的な大敗を喫する。
また一門衆である武田信豊・穴山信君に至っては
主君である勝頼を置き去りにして戦場を離脱している事から
武田家中は、文官・武官の対立に加え一門衆との確執もあったように思われる。
この大敗の結果、生き残った宿老は高坂昌信秋山信友のみ。
しかし、同年11月には秋山信友が美濃から攻め入った織田信忠によって降伏後、誅殺。
高坂昌信も3年後、北条との甲相同盟を見届けると病死してしまう。
翌年、上杉謙信の突然の死去により上杉家は景勝と景虎の間で分裂
北条の後ろ盾がある景虎に対抗するべく
景勝は勝頼の側近に賄賂を贈り、上野国と縁組を条件に応援を要請。
結果、景勝が上杉家の後継者となるが、北条氏政を激怒させる事になる。
氏政は家康と和睦。さらに家康の仲介で織田とも和睦。
三国同盟を結び三方を敵に囲まれる形となってしまう。
1581年、穴山信君に薦められ韮崎の地に新府城を築城する。
が翌年、木曽義昌が織田方に降った事をきっかけに信濃・甲斐国内が戦場と化す。
木曽討伐に武田信豊・仁科盛信を派遣するも敗北。
ならばと、勝頼自身が二万の兵を率いて木曽攻めを続行。諏訪に陣取る。
この動きに対し義昌は信長に救援を依頼。義昌の報を受け
美濃から織田信忠、飛騨から金森長近、駿河から徳川家康、上野から北条氏政が進軍。
総勢十八万を超える軍勢が武田領内に攻め入った。
各地で降伏する者、逃げ出す者が続出し、まともに戦ったのは仁科盛信が守る高遠城のみ。
当然、勝てる訳も無く信忠軍の前に全員討死を遂げた。
高遠城が落ちた事で四方を敵に囲まれる事となった勝頼一行は、
築いたばかりの新府城、長年武田家の居城とした躑躅ヶ崎館を焼き払い
小山田信茂を頼り岩殿山城を目指す。
が、小山田家は武田家を見限り入城を拒絶、さらに領民までもが敵となり襲いかかる中
天目山へ落ち延び、付き従った僅かな忠臣と女子供、嫡男信勝とともに自害して果てる。

武田 信廉 たけだ のぶかど (-1582) 刑部少輔 入道:逍遥軒

武田二十四将の一人
武田信虎の三男。
信玄を補佐して諸合戦に参戦した。
特に武勇伝は残っていないが信玄と容姿が似ていたため、影武者を務めたとされている。
武人画家として有名で父信虎や母大井夫人の画像、仏画、彫刻などが残されている。
そんな文化人としての一面が強い信廉だが
1582年「織田家侵攻」により捕らわれの身となり府中で斬罪された。

武田 信繁 たけだ のぶしげ (1525-1561) 左馬助・典厩

武田二十四将の一人
武田信虎の二男。
信虎の寵愛を受け、武田家の家督は信繁に継がせようとしていたが晴信(信玄)が事前に察知。
信虎を追放する事で武田家当主となり、信繁も補佐役に徹した。
本性誠実・文武両道に秀で家中はもちろん、
織田信長・上杉謙信・北条氏康など他大名からも武田の副大将として認められていた。
また、真田昌幸は信繁の武勇を深く感じ、二男に信繁(幸村)と名付けている。
「第四次川中島の戦い」では最前衛を担当し
上杉軍の猛攻を受けるが「援軍無用、策構すべし」と急使を送り敵中への突撃を敢行。
壮絶な討死を遂げる。
信繁は生前、嫡男信豊に「信玄家法」と呼ばれる99ヶ条の中で、
武道・兵法・礼儀作法など家臣団の規定を残している。

武田 信虎 たけだ のぶとら (1494-1574) 左京大夫・陸奥守

父信縄の跡を継ぎ、叔父信恵を滅ぼし甲斐国(現-山梨県)を統一する。
今川氏親や北条氏綱と戦いを繰り広げる。
信濃方面も支配下に置こうと出兵を繰り返すが、結果として民への増税に向っていく。
1536年、嫡男晴信に三条公頼の娘を、今川義元に自分の娘を嫁がせるが、
1541年、信虎の暴政に対し晴信と家臣団が結託し今川家に追放されてしまう。
その後、義元の跡を継いだ氏真との不和から駿河を出立。
上洛して将軍足利義輝に謁したり高野山にのぼったとされる。
信玄の死後、信州高遠城で孫勝頼と対面するが甲斐の地を踏む事無く高遠で病死した。

武田 晴信 たけだ はるのぶ (1521-1573) 大膳大夫・信濃守 入道:信玄

武田信虎の嫡男。
1536年、16歳で元服。足利義晴の偏諱を受け晴信と名乗り従四位下大膳大夫に任ぜられる。
また同年、三条公頼の娘を娶る。
翌年、「佐久海ノ口攻め」で初陣。
攻めあぐねた結果、武田軍は撤退と決断。晴信は殿(しんがり)を望み出る。
殿を任された晴信は手勢300人ばかりで残り
翌朝、手薄になった海の口城に攻め込み城を落とした。
が、この報を受けた信虎は空城は落とせて当たり前と手柄を認めようとはしなかったという。
この頃、既に信虎は晴信よりも二男の信繁を後継者にと考えていたらしい。
1541年、信虎の暴政に見切りをつけた板垣信方甘利虎泰ら重臣が晴信を擁立。
晴信もまた、廃嫡される心配から協力。
さらに受け入れ先の今川義元の協力も得て信虎の追放に成功。
こうして武田家の正当な後継者となる。
翌年、高遠頼継を共謀して諏訪頼重領へ侵攻。頼重を謀殺し諏訪領を高遠頼継と二分する。
が、諏訪領全域を支配できると思っていた高遠頼継は
矢沢満清、藤沢頼親らと組み上原城を落とし諏訪下社を占領してしまう。
これに対し晴信は頼重の遺児虎王を擁して諏訪へ侵攻。
高遠頼継を破り板垣信方を郡代として上原城主に任命。
以降も城攻めを繰り返し上伊那地方を占領。さらに佐久郡と領地を拡大していく。
南信濃の平定に成功した晴信は北信濃の村上義清、小笠原長時への侵攻を始める。
1548年、義清の居城葛尾城に向けて進軍。上田原にて村上勢と対峙する。
武田軍8000に対し村上軍7000と兵力では優勢だったが土地に慣れた村上勢の前に完敗。
板垣信方、甘利虎泰を始め多くの勇将が討死した。
この敗戦により佐久・諏訪など信濃での支配力が大きく揺らぐ事になってしまう。
勢いづいた小笠原長時は反武田勢力を併合して塩尻峠まで侵攻する。
その報を受け武田軍は日が暮れるのを待って進軍、明け方に小笠原軍を強襲し打ち破る。
この勝利で武田軍は息を吹き返し佐久郡を平定。
さらに小笠原長時領内に侵攻し撃破。長時は義清を頼って逃げ落ちた。
北信濃での敵は村上義清のみとなり1550年、武田軍は戸石城を攻める。
この時、義清は高梨政頼との戦いで留守だった。
武田軍は一週間の包囲の後、総攻撃を開始。が城兵の必死の応戦に容易には落とせなかった。
一方、義清は政頼と和睦し戸石城の応援に向う。
背後をつかれるのを恐れ武田軍は退却を開始。それに呼応して城兵は猛烈な追撃戦に出る。
結果、横田高松を始め1000人の将兵が討死。
再び手痛い敗北を喫する事となり、俗に「戸石崩れ」と呼ばれる。
翌年、戸石城は真田幸隆の内部工作により落城。それ以降、村上義清は支配力を失っていく。
1553年、深志城を発した武田軍は義清の居城葛尾城に向けて進軍するが
既に義清に抵抗する力は無く上杉謙信を頼って越後へ落ちる。
1554年、武田・北条・今川の甲相駿、三国同盟が成立する。
武田は信濃。北条は関東。今川は西三河。と、お互いに攻める方向は別であるにも関わらず、
他家の出兵の隙をついた、つまらない小競り合いが発生していた為である。
この三国同盟により三家とも後を気にせず戦える状況が約束された事になり、
晴信も矛先を北・西へ向け、下伊那郡を制し木曽谷の木曽義康を降す。
これにより三河、美濃方面への出兵も可能となり信濃のほぼ全域を支配下に治めた。
領国の経営にも力を注ぎ、
「甲州法度之次第」を基に法をしき、治水工事、金山開発と自国領の安定に務めた。
1561年、「(第四次)川中島の戦い」では上杉軍と死闘を演じる。
これまでにも川中島で上杉軍とは睨み合いや小競り合いを続けてきたが、
今度こそは叩かねばならないと飯富昌景馬場信春に促され決戦を決意する。
妻女山に陣取る上杉軍8000を八幡原に追い落とすべく
武田軍12000が夜襲を試みるも既に妻女山に上杉軍の姿は無い。
八幡原では信玄率いる8000が敗走する上杉軍を待ち受けるはずだったが、
夜明けとともに無傷の上杉軍に攻め立てられる。
12部隊のうち9部隊が崩され武田信繁、山本勘助らが討死。
信玄も手傷を負う危険な状態だったが別働隊の到着で状況は一転、上杉軍は敗走する。
この合戦で武田軍死者17000、上杉軍9400にのぼったという。
これだけの死者を出すも同年、北条支援の為に西上野へ出兵。
さらに翌年、本格的に西上野の攻略に乗り出す。
また、桶狭間の戦いで今川義元が亡き今、三国同盟は消失と判断。今川攻めを決意する。
この判断は義元の娘を嫁にしていた嫡男義信との確執を生み、結果自害に追い込む事となる。
1568年、穴山信君を徳川家康の元へ派遣し
武田・徳川が呼応して今川領に攻め込み大井川を境に領有を約し駿河攻めを実行に移す。
今川氏真も武田軍を迎え撃つが、
この時すでに今川家には信玄の調略の手がのびており大将21人が内応。
ロクな戦闘もできぬまま遠江掛川城に落ちていき、駿河は信玄に占領される。
翌年、今川救援として北条軍が駿河に侵攻、武田軍と戦闘を続けるが大軍を動かせない地形の為、戦闘は長期化してしまう。
武田家との約定どおり徳川家康も掛川城を攻めていたが、その最中に信濃飯田城主秋山信友が徳川軍を攻め立て撃破してしまう。
この行為により徳川は武田と手を切り北条と結び、北条もまた上杉と結ぶ。
完全に孤立した武田軍は撤退と決意。駿河をすて甲斐に引き揚げる結果となる。
北条に駿河を奪われた形となった信玄は北条勢を関東に集めようと頻繁に関東出兵を行う。
伊豆韮山城を攻め、富士大宮城を降伏させ駿河への道を確保。
武蔵鉢形城、武蔵滝山城と、囲んでは攻囲を解き南下を繰り返し小田原城に迫った。
この時、北条勢は各地に分散されており城内には北条氏一族と城兵1000程度だったという。
北条氏政は篭城策を取り各地の北条軍の到着を待つ。
信玄も本気で小田原城を攻める気は無く4日間包囲した後、甲斐への撤退を始める。
小田原城の救援に向っていた北条氏照・氏邦は武田軍の撤退を知り三増峠で待ち伏せた。
が、この動きを察知した信玄は兵を3隊に分け北条軍を包囲、逆に北条勢を打ち破った。
この大規模な陽動作戦により
氏政は駿河の部隊を相模に戻す事となり信玄の目的は達成されたと思える。
甲斐に戻るとすぐに信玄は駿河へ侵攻、興津城、蒲原城を落とす。
さらに今川氏遺臣が立て篭もる駿府今川館、花沢城、深沢城を落とし駿河の奪還に成功する。
1571年、北条氏康の病死により氏政が跡を継ぐ。
この時、遺言に従い上杉との同盟を破棄。武田家に和議を申し入れてくる。
甲相同盟の復活により東の驚異は消え上杉への抑えにもなる。
こうして1572年、いよいよ武田軍は西上作戦を開始する。
山県昌景を先発として伊那郡から西駿河へ侵攻、犬居城、只来城、二俣城を攻めさせる一方
秋山信友には東美濃の岩村城を包囲させ落とす事に成功させる。
三河へ侵攻した部隊は後発の信玄本体と合流し二俣城を落とす。
武田軍の進軍に城内の意見は篭城策を唱えたが家康は野戦を決意、
三方ヶ原を通過する武田軍の側面を突くべく出陣する。
しかし、武田軍が浜松城に向って南下しているとの報により浜松城に引き返す。
が、再び武田軍は進路を変え三方ヶ原の北、
祝田の坂へ向ったとの報に背後を強襲する事を決意する。
信玄は坂に差し掛かると全軍を停止させ反転。迎撃するべく戦闘準備を整える。
待ち構えている武田軍の姿に徳川軍は退却を考えただろうが既に後の祭。
小山田信茂隊の投石により「三方ヶ原の戦い」と呼ばれる戦闘が開始する。
引くに引けず動くに動けない徳川軍だったが突撃を敢行。
徳川軍も石川・大久保・酒井・本多と勇戦するが徐々に包囲されていく。
信玄は小荷駄隊の米倉重継にも荷をそのままにして攻撃に加わるよう命じ、米倉隊も参戦。
これで徳川軍は崩れ敗走、浜松城に逃げ帰る形となった。
この追撃戦は猛烈を極め、徳川家康は恐怖のあまり脱糞したとまでいわれている。
三方ヶ原で勝利した武田軍は祝田の坂を下り刑部で布陣して年を越す。
年明けそうそう三河に進み野田城を囲み降すが、既に信玄の病は重く西上を断念。
甲斐へ引き揚げる途中で死亡したとされる。
一説には野田城包囲中、城中から聞こえる笛の音に魅せられ
陣中を出た所を狙撃されたともいわれるが真偽の程は定かでない。
信玄が軍旗にしたという「疾如風徐如林侵・掠如火不動如山」の文字。
正確には続きがあり
「疾きこと風の如く、徐なること林の如く
侵掠すること火の如く、動かざること山の如く
知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し。」
となる。

多田 満頼 ただ みつより (1501-1563) 淡路守

武田二十四将の一人
火車鬼退治の伝説を持つ豪傑。
信虎信玄と二代にわたり満頼の武勇には信頼を寄せていた。
特に夜襲戦の采配は絶妙で誰も追従できないとまで評された。
「上田原の戦い」「戸石崩れ」以降も生き抜いた数少ない宿老だったが
息子が出陣した川中島の戦いから2年後、病によりこの世を去る。

戦国武将 -ち-

戦国武将 -つ-

土屋 昌次 つちや まさつぐ (1545-1575) 右衛門尉

武田二十四将の一人
晴信(信玄)の傅役だった金丸筑前守虎義の二男。
「川中島合戦」に17歳で初陣を飾り、
武田本陣が攻め込まれた際に信玄の側を離れず応戦した。
その後、甲州の名族土屋姓を継ぐ。
信玄の病死の時には殉死を願い出るが高坂昌信
「公の遺志を守り御曹子勝頼公のために働くのが武士のつとめ」と押しとどめられる。
1575年「長篠の合戦」では
織田・徳川軍の馬防柵を引き倒そうと試みるが鉄砲隊の射撃を浴び討死。

戦国武将 -て-

戦国武将 -と-