武田二十四将の一人・武田四名臣の一人
工藤下総守虎豊の次男として生まれ、もともとは工藤源左衛門尉祐長。
父、虎豊が
信虎の勘気に触れ誅殺された事により兄と共に甲州を出奔する。
晴信(信玄)が信虎を追放した事で召し戻され家臣団に復帰、工藤氏の旧領を相続する。
父の汚名を晴信により晴らされた事で以後、武田家の中枢として活躍していく。
川中島で信玄の弟・
信繁が戦死した後は、武田家の副将と目され
主な合戦には必ず参加し、味方を勝利に導く軍功を多数挙げるが、
信玄からの感状は一通も貰っていない。
信玄が近習に語った話として
「修理亮ほどの弓取りともなれば常人を抜く働きがあってしかるべし」と笑ったという。
また昌豊も「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもの。
個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と語ったという。
1566年、西上野(現-群馬県)箕輪城を攻め落とし城将となり関東の備えを担う。
また、この功績により甲斐の名族であった内藤の姓を受ける。
1575年「長篠の合戦」では他の宿老同様、勝頼を諭すが失敗。
織田・徳川軍の集中砲火を浴び討死を遂げている。