戦国武将 -や-

山県 昌景 やまがた まさかげ (1529-1575) 三郎兵衛尉

高坂昌信
武田二十四将の一人・武田四名臣の一人
飯富虎昌の弟で、もともとは飯富源四郎。信玄勝頼の二代に仕えた。
兄虎昌が信玄の長男、義信の謀反に連座したとして誅殺される。
その際、信玄に逸早く通報したのが昌景といわれ、信玄は忠誠を喜び、
昇進と共に甲斐の名家であった山県の姓を継がせ虎昌の赤備えの部隊を併合している。
「三方ヶ原の戦い」では兵5000を率いて先発隊を務め秋山信友隊と共に家康の本陣を襲った。
この戦いで家康は自決を覚悟するほどの壮絶さを極め、ほうほうの態で浜松城に逃げ帰った。
城内で家康は「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ。
あやうく命を落とす所であった」
とこぼしたという。
こうした数々の武功が目立つ昌景だが、外交や内政にも手腕を発揮し信玄の信頼も厚かった。
事実、信玄は臨終の際、
枕もとに昌景を呼び「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命したと伝えられる。
1575年「長篠の合戦」では他の宿老同様、勝頼を諭すが失敗。
逆に「臆病者」と罵られた結果、勝頼と盃を交わした後、織田・徳川軍への特攻を敢行
全身に弾を浴びるものの馬から落ちず、采配を咥えたまま絶命したという。

山本 晴幸 やまもと はるゆき (1493-1561) 勘助 入道:道鬼

高坂昌信
武田二十四将の一人
名軍師として知名度が高いが実存したかをも含め謎の多い武将。
容貌は身の丈低く、色黒い醜男。左眼は失明し右足は不自由だったとされる。
勘助の名が登場するのは史料としては「甲陽軍鑑」のみで江戸時代から存在は疑われていた。
が、昭和44年に北海道釧路市で「重要な事は使者山本管介の口上をもって伝える」
と書かれた古文書が見つかり実在説が強まる。
「甲陽軍鑑」によれば、勘助は諸国を歩き文武百般に通じていたが容貌から相手にされず、
信玄だけが唯一、勘助の非凡さを見抜いたとされる。
勘助は特に築城に能力を発揮し高遠城・小諸城・海津城の縄張りを務めたとされ、
その技術・知識は馬場信春に受け継がれたとも伝えられる。
「第四次川中島の合戦」では有名な「啄木鳥戦法」を提案したとされ、
上杉軍に裏をかかれ窮地に追い込まれた武田軍を見て
責任を感じて敵中への突撃を敢行し討死したと伝わる。

横田 高松 よこた たかとし (1488-1550) 備中守

高坂昌信
武田二十四将の一人
信虎信玄の二代に仕えた。
敵の動きから戦術を読み取り先手を取る戦いを得意にしたという。
1547年「志賀城攻略戦」では別働隊として裏山から潜入、
山城の生命線である水の手を抑える事に成功。
さらに板垣甘利らと共に
小田井原に布陣していた上杉憲政の援軍、金井秀景隊の殲滅にも成功している。
が、その3年後の「戸石城攻略戦」で武田軍は「戸石崩れ」と呼ばれるほどの大敗。
横田隊は殿を務め敵陣に残って奮戦するものの討死する。
のちに信玄は「武辺おぼえのものになろうとするならば、
原美濃・横田備中のようになれ」
と死を惜しんだという。

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